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お茶の正解、キミの正解

おかえりなさい。

「正解」というものは必ずあるようです。

例えば、僕が執筆の際に欠かせなくなっている珈琲。

「この豆はこのように挽いて、この温度のお湯を一度染み込ませ30秒馴染ませた後ゆっくりと

真ん中から円を描くように・・・」という「正解」の淹れ方があります。

その「正解」が「欲しいもの」であるとは限りません。

たとえば体調が良くないとき、なんとなく胸に重いものが感じる時はさっぱりとした味わいの

ブレンドをコーヒーメーカーで薄めに淹れます。

たぶん珈琲が好きだと言う人にはこの珈琲はお勧めできないかもしれません。

ただ、その時の僕には掛け替えのない「欲しいもの」なのです。

安土桃山時代、千利休の兄弟子である丿貫(へちかん)という茶人がいました。

彼はミニマリストの代表のように言われる千利休でさえ「媚びすぎ」と言うほどで、

茶器にはまったく拘らず使う道具など何でもいいというタイプ。ひとつの釜で

お茶も雑炊も煮物も作ったと言います。

質素な暮らしを好み独自の茶道を極めていた人です。

豊臣秀吉が日本最大のお茶会を開き、1500もの茶室で全国の茶人が腕によりをかけて「おもてなし」をしていた中で丿貫は朱塗りの傘をざっと庭に立て、そこで質素にお茶を点てたといいます。

その様は逆に目を惹き、秀吉が訪れた時に「ほぼ、お湯」のような茶を点てたそうで、その理由は「このお茶会で様々な茶人のお茶を飲んでこられたでしょうから、さっぱりと喉を潤せるように」と。この一件で秀吉からとても気に入られたようです。

「お茶を淹れる」とは、自分の身体と向き合うという事。

このように、お茶ひとつにしても「正解」を再現するよりも、ほんとうに「欲しいもの」を考える、自分と向き合うことが大切なのかと思いますよ?


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